西暦一九三九年。「世界大戦」末期。

「諸君!」
“彼”の号令に、その場に集まった幾百の視線が集まる。
“彼”は満足げに周囲を見渡した。誰の表情も、これから行われる「奇跡」への期待に輝いていた。
一際高い位置にある演壇は、“彼”のために用意された玉座のように思えた。
“彼”は、軽く一息吸った。
ここは、エーゲ海と地中海の狭間にある伝説の島・クレタ島。その神秘に満ちた夜の空気が“彼”の肺に流れ込んだ。体中に力がみなぎってくるようだった。
“彼”は両手を力一杯広げて叫んだ。
「ゲヒルンの予言は成就された。私は、ここに宣言する! 長きに渡った“世界大戦”に終止符が打たれることを!」
群衆が一斉にどよめいた。満天の星が一瞬震えたかのように思えた。
中には感極まって腕を振り上げ「ハイル」を連呼する者も少なくなかった。それが、総統のためでなく、自分に贈られているのだ。“彼”は自分の掴んだ力を実感した。
「これが我々の“ヴァンクォ”だ!!」
“彼”が、指差す先には、大量の銀色に輝く液体に満たされたプールがあった。たゆたう水面は、一見、水銀のようにも見える。
“彼”のシンパ達は、食い入るように白銀の液体を見つめていた。
「ヴァンクォ。ヴァンクォ。ヴァンクォ……」
そこに集う者達は、口々に“その名”を唱え始めた。大地を這う低音の合唱。
彼らの唱和が、最高潮に達するのを見計らって、“彼”は、一際高く叫んだ。
「全ヨーロッパ、いや、全世界は、我々の前にひれ伏すであろう!」
「ハイル! ゲヒルン!! ハイル! ブリッツ!!」
人々は一斉に吼えた。液体が波打つのでは、と思うほどの雄叫びであった。
“彼”は、ここぞとばかりに叫んだ。
「いでよ! ヴァンクォ!!」
それと同時に液体に変化が現れた。
銀色の水面に無数の波動が出現したのだ。波動の幾つかは、一体化し、やがて大きなうねりを生み出していく。
その場を静寂が支配していた。誰も一言も発さない。呼吸すら止めているのかもしれない。
銀色の水面が小山のようにゆっくりと盛り上がる。だが、不思議なことに液体は溢れない。溢れるどころか、さらに勢いを増して隆起していく。
もはや液体ではない、恐るべき粘度を持った物体である。さらに、その表面には電光が走る。液体自体に生命が宿っているかのような脈動。
ついに液体は、プールの中央で巨大な塊となった。それは、ブルブルと脈打ちながら縦方向へと伸び上がり始めた。そして、徐々にある“形”をとり始めた。
ゆっくりと“それ”は立ち上がった。
身の丈五〇メートルを優に越えている。
“それ”は、まさに巨人だった。
満天の星空を突いてそびえ立つ銀色の巨体。ここクレタ島に古より伝わる鉄巨人伝説の再現だった。
群衆は、恐怖と畏敬の綯い交ぜになった眼差しで見上げていた。
「歩け! ヴァンクォ!!」
“彼”は、巨人に鋭く命令した。
巨人ヴァンクォは、鞭を入れられたように一度大きく痙攣した。そして、ゆっくりと右足を前へ踏み出す。
「ヴァンクォ! ヴァンクォ! ヴァンクォ!!」
巨人の歩みに合わせて、群衆は、再び、その名を力強く叫んだ。
何の前触れもなく、巨人の動きが止まってしまった。
同時に群衆の叫びも消え失せる。
次第に不安と恐怖が綯い交ぜになったどよめきがさざ波のように広がっていく。
「何だ!? 何が起こった!?」
巨人が輝きだしたのは、その時だった。ヴァンクォの全身が白熱したような光に包まれている。音も熱もない不思議な光だった。
その場にいたほとんどの人間が、動きを止め、その輝きに見入っていた。
「美しい……」
“彼”もまた、その神々しい輝きに魅せられていた。
さらにヴァンクォが輝きを増し、周囲を白濁(ホワイトアウト)させていった。
一瞬の間。
そして、巨人は弾け散った。
高速高熱の飛沫が周囲に飛び散る。
銀色の魔弾が群衆に襲いかかる。
直撃を受けた者は姿無きまでに粉砕され、掠っただけでも、その身は衝撃で寸断されていった。連鎖する死と破壊。
“彼”は、地上に噴き出した地獄絵図を呆然と見ているだけだった。
「ど、どうして……なぜ……」
“彼”は世界大戦を収め、ヨーロッパの、否、世界の覇者になるはずだった。
それが、一転しての破滅。
栄光の玉座となるべき演壇は、今や“彼”の処刑台となりつつあった。周囲は炎に包まれ、逃げ場はすでに失われていた。
悲鳴をあげる間もなかった。
“彼”の視界は、閃光に包まれ、一瞬にして暗転した。

その闇は、それから数十年の長きに渡り、“彼”を包み続けることとなった。
「なぜだ……」
“彼”は闇の中で、そのことだけを考え続けていた……。